大判例

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最高裁判所第一小法廷 昭和45年(あ)66号 判決

主文

原判決を破棄する。

被告人は無罪。

理由

弁護人田上宇平の上告趣意のうち、違憲(三一条違反)をいう点は、実質は単なる法令違反の主張であり、判例違反をいう点は、所論引用の判例は事案を異にし本件に適切でなく、その余は、事実誤認の主張であり、弁護人堀内茂夫の上告趣意のうち、違憲(三一条、三五条違反)をいう点は、実質は単なる法令違反の主張であり、判例違反をいう点は、所論引用の判例はいずれも事案を異にし本件に適切でなく、その余は、事実誤認、単なる法令違反の主張であって、いずれも適法な上告理由にあたらない。

しかし、所論にかんがみ、職権で調査すると、原判決は、刑訴法四一一条三号によって破棄を免れない。その理由は、以下に述べるとおりである。

一、本件公訴事実の要旨は、「被告人は、山梨県北巨摩郡長坂町〇〇〇××××番地所在木造平屋建住宅兼店舗(建坪約一一五平方メートル)に居住し、夫太郎とともに食料品雑貨商を営んでいるものであるが、自宅周辺において昭和四二年二月以降発生した火災につき、被告人又はその兄弟の犯行であるとの風評が流布され、被告人の弟五郎の内妻乙山月子の両親方にもその風評の伝わっていたことを知るや、自宅に放火して右風評を他に転じさせようと企て、昭和四三年三月四日午前三時頃、夫太郎、長男初、長女花代の現に住居として使用する右自宅西北隅にある物置内において三段積の木箱上に中型マッチ箱約一五〇個入りダンボール、蝋紙、みね俵を積み、これにマッチで点火して火を放ち、右建物天井に燃え移らせ、右天井約五〇〇平方センチメートルを焼燬したものである。」というのであり、第一審裁判所は、検察官提出の全証拠によっても本件火災が被告人の放火行為によるものと確信をもって認定することはできず、なおそこに合理的疑いを容れる余地があるとせざるをえないとして、被告人に対し無罪の言渡をしたが、原審は、本件出火が外部からの侵入者によってなされたと認めうる証拠がなく、かえって、内部の者の犯行でないと考えられないような出火の場所、時刻、放火材料、装置等からみると、放火犯人は被告人方内部の者と断定せざるをえないし、出火当時被告人方に現在した被告人以外の者については犯人と疑うに足りる事由は全くないことと、被告人には放火の動機および犯人と疑うべき事情があることなどを考えあわせると、本件は被告人の犯行と認めるに十分であるとして、第一審判決を破棄し、放火の動機を「自宅周辺において昭和四二年二月以降発生した三回の火災につき、被告人またはその兄弟の犯行であるとの風評が流布され、弟甲野五郎や被告人自身も警察の取調を受け、とくに昭和四三年三月三日夜五郎の内妻乙山月子から、被告人らがその叔父であり当時山梨県警察本部防犯少年課課長をしていた甲野太一に頼み、もみ消しを図ったとの噂が月子の両親方にも伝わったことを聞知し、興奮の末、自宅に放火しこれを焼燬して右風評を他に転じさせようと企て」と判示したほかは、前記公訴事実と同趣旨の事実を認定したうえ、被告人を懲役二年六月に処したのである。

二、本件記録によると、被告人が肩書住居地所在の木造平屋建住宅兼店舗に居住し、夫太郎とともに食料品雑貨商を営んでいたこと、昭和四三年三月三日の夕食時に被告人は弟甲野五郎の内妻乙山月子から、同年二月四日の同部落の三井泰彦方火災が被告人もしくは弟五郎の放火によるものであり、しかも被告人は当時山梨県警察本部防犯少年課課長をしていた叔父の甲野太一に頼んで、これを失火としてもみ消してもらったとの風評が流布され、右風評が月子の実家である乙山正一方にも伝わっていることを聞き知ったこと、翌三月四日午前三時頃右家屋西北隅にある物置内において、三段に積まれた酒木枠の上に普通のマッチの四倍の大きさのマッチ箱が約一五〇個位入っていたダンボール箱が置かれ、右マッチ箱の間にタバコ包装用蝋紙一四、五枚がはさみこんであり、さらに右マッチ箱の上にみね俵(祝儀用の小型の俵)一個がのせられ、これらが燃え上って右物置の天井約五〇〇平方センチメートルを焼燬したこと、右火災が何者かの放火によるものであることは、いずれも証拠上明らかであって、以上の事実関係に関する限り被告人においてもほぼこれを争わないところであるが、本件火災が被告人の放火によるものであるとの点については、直接証拠の存しない本件にあっては、結局、情況証拠による判断にまつほかはないのである。

三、そこで、原審が、本件火災を被告人の放火によるものと認めるに十分であると推断した理由について検討を加えることにする。

まず、原判決が、情況証拠によって被告人を犯人であると断定した推論の過程は、その説示によると、次のようなものと解される。すなわち、<1>本件放火の犯人は被告人方内部の者と認められること、<2>出火当時、被告人方にいた他の者については犯行の嫌疑が認められないから、残るのは被告人だけに絞られること、<3>ところが、被告人には、放火の動機となりうるものとして、(イ)当時既に改築することに決っていた本件家屋に出火の前々日に二〇〇万円の火災保険をかけたこと、(ロ)昭和四二年二月以降被告人方付近で発生した三回の火災につき被告人またはその弟五郎の犯行ではないかとの風評が流布されていたので、被告人がこれを思い悩んでいたこと、などの諸事情が存し、さらに、被告人を犯人と疑うべき事情として、(イ)出火の前日頃、被告人は着物一揃を右五郎方に預けたこと、(ロ)出火当日の就寝にさいしての被告人の服装と出火後の被告人の行動について奇異に感じられる点があったことなどの理由から、本件火災を被告人の放火によるものと推認できる、というのである。

四  原判決が説示する犯人は内部の者であるとする点について。

(一)  原判決は、被告人が犯人であると認める有力な根拠として、本件火災発生当時、被告人方の戸締りが全部なされてあったことをあげている。

なるほど、《証拠略》によると、<1>本件火災発生の前日である三月三日午後八時頃小沢忠男が夜警小屋の鍵をとりに被告人方に行った際、店舗の外側ガラス戸は閉っており、カーテンが引いてあったが、南側のタバコショウケースの東側のガラス戸(店舗南側出入口)の所が一本だけカーテンが開いていたので、錠がかけられていないと思い、そこから中に入ったこと、<2>三月三日は日曜日で被告人方の店は休みであったが、田舎のこととて夕方部落の買物客がくることもあるので、店舗南側出入口のガラス戸一本だけを開けておいたこと、<3>同日午後八時頃被告人の夫賢二が夜警に出掛ける前に、店の戸締りを点検し、西側ガラス戸は全部差込錠がしてあり、ただ、錠のかからないガラス戸には太さ一センチメートル位の三角の棒をかって心張棒として外から入れないようにして南側出入口ガラス戸を開けて出たこと、<4>その後、午後九時か一〇時頃になって、被告人は、弟五郎が運転する軽四輪自動車でその内妻乙山月子の三人で高根町北割に行くことになり、店舗南側出入口から出たが、その際、被告人の弟十郎と長男初が右の出入口の所に行き、十郎がそこの鍵をかけたこと、<5>被告人が自宅に帰ったのは翌日午前零時少し前であったが、弟五郎の運転する軽四輪自動車から自宅のタバコ売場前付近で降りた際、被告人らが出た前記南側出入口のガラス戸をひっぱってみたところ、完全に鍵が締っていたので、安心して裏の勝手場東側出入口から入ったこと、<6>店舗の施錠は、平素被告人か夫太郎かのいずれかがするならわしであり、夕食後店の戸を開けておく個所は、タバコショウケース横のガラス戸(南側出入口)だけであるから、就寝の際は右の個所の鍵だけを点検する習慣であったこと、したがって、当日の晩も、被告人が右のガラス戸を外から点検しており、家の鍵は全部かかっているものと考えていたこと、がそれぞれ認められるので、右<1>ないし<6>の事実を総合すると、本件出火当時、少なくとも、被告人方の店舗部分は戸締りがしてあったものとみられないではない。とくに、心張棒をかける西側出入口のガラス戸については、三月三日午後六時三〇分頃、夫太郎がすでに戸締りしたつもりでいたところ、ここから仁科司郎が入って来たので、戸締りを忘れていたことに気付き、同人を送り出した後、戸締りをしたとうかがわれる証拠も存するので、右の出入口は、太郎が心張棒をかけたものと一応認めざるをえないように思われる。なお、前記勝手場東側出入口は、被告人が帰宅したとき鍵をかけた旨を供述している。

しかし、他方、記録によると、本件家屋における出入口、もしくは人の出入り可能な窓は一二個所あるところ、そのうち本件火災発生時に、施錠等がなく人の出入りが可能であったと認められるのは、店舗西側の雨戸部分、店舗西側の心張棒による戸締り部分および勝手場北側のガラス一本引戸部分の三個所であるが、店舗西側の雨戸部分は古タイヤで押えてあるだけで容易にこれを開けることができるとしても、その内側に豆炭や塩類等が積んであって、外部の者が侵入することは困難であると考えられるが、勝手場北側のガラス一本引戸は、開閉するとがたがた音がし、家人の寝室に近いこともあって、同所から侵入することは容易でないとはいえ、全くその可能性がないわけではなく、また、西側のガラス戸の戸締用の心張棒は強固なものではなく、天井、壁等をベニヤ板で張る際にそのあわせ目等をとめるために用いる細い棒であって、太さ約一センチメートル、長さ約五八センチメートルにすぎないものであるから、外部から戸を開けようとして力を入れると外れ落ちる可能性があることを考慮にいれるときは、この出入口からも外部の者が絶対に侵入できないと断定することはできないのである。そして、右の心張棒については、被告人が、本件火災が鎮火した直後、放火材料としてつかわれたマッチ入りダンボール箱がくすぶっていたので出火場所からそのまま店舗内流し場に持ってきて、これに上から水道の水をかけ、前記の心張棒でその中味をつき崩したりしていた事実が存することからみると、被告人の夫太郎が夜警に出掛ける際、心張棒をかけ忘れたものか、あるいは他の原因により外れたものと考える余地もないではない。もっとも、被告人は、前記のように放火材料としてつかわれたマッチ入りダンボール箱の中味をつき崩すに用いた右の心張棒を発見した場所について明確な供述をしておらず、一審公判廷では、「足もとか冷蔵庫の台の上かで、それほど歩かないところで発見した。」旨を延べ、司法警察員に対しては、「冷蔵庫のうしろの調理台のところか、麺類陳列台の下の油の缶の上。」と述べているが、その供述内容に首尾一貫しない点もあるので、この供述によって心張棒は当時かけられてなかったと断定することは相当ではないであろう。しかし、だからといって、被告人が本件火災の鎮火後に、前記のように、放火材料であるダンボール箱の中味をつき崩すため西側出入口のガラス戸にかけてあった心張棒をとり外した事実を認めるに足るなんらの証拠も存在しないのである。

以上要するに、本件家屋の戸締りの状況から、本件火災が外部からの侵入者による放火ではないと断定することには、なお疑問が残るといわざるをえない。

(二)  原判決は、かりに、外部から犯人の侵入する可能性があるとしても、放火の場所、材料、方法等からみて、本件放火は外部侵入者によるものではなく、内部の者によるものと断定するほかない旨を説示している。

なるほど、記録によると、本件出火場所は、南側店舗から入って物置一つを通り抜けた最も奥の西北隅の物置内であって、その物置の東側は四畳半の寝室であり、その間に三尺の高窓があること、店舗内には各種食料品、雑貨類の陳列台、陳列棚、冷蔵庫等が殆ど店舗内一杯に置かれ、二つの物置にはいずれもビール、ジュース、酒、木炭、塩等の商品や、その空箱類が雑然と積んであり、出火当時の照明としては、店舗内は消灯してあり、僅かに外灯の光が差し込んでいるのみであって、勝手場と六畳の居間に各二燭光の電灯がつけてあったほか、物置には灯火がなく、真暗であったこと、出火場所である西北隅の物置に行くには、店舗内の冷蔵庫と麺類棚、流し台の間を通り、南側物置を通り抜けなければならないこと、しかも、同所は家人らが寝ていた寝室の隣であること等が認められるので、もし、外部侵入者ならば、家人に気付かれるおそれのある奥の物置まで侵入する危険をあえて冒す必要はなく、むしろ逃走の便宜を考えるならば侵入口近くを選ぶことが自然であると思われることは、原判決の説示するとおりである。しかし、反面、本件の出火場所は、外部の者が放火したことを装うためには、はなはだ不適当な場所なのであって、本件火災が、起訴状に記載されているような動機からの被告人の放火によるものとすれば、なぜ被告人がことさらに自ら疑いを招くような場所を選んだのか、その意図を理解することが困難であろう。

さらに、本件放火の方法並びに材料の集め方についてみると、本件は、奥の物置内に三個積み重ねてあった酒類の空木枠の上に、中型マッチ一五〇個位入りのダンボール箱を積み上げ、右マッチ箱の間にタバコ包装用の蝋紙一四、五枚をはさみ、さらにマッチ箱の上にみね俵をのせて放火したものであることが証拠上明らかであるところ、右材料のうち、マッチ箱入りのダンボール箱は、前記心張棒のかかるガラス戸入口のすぐ左手にある南側物置の東側壁際にあるジュース木枠の上に置かれていたもので(その上に大豆袋が置いてあったか否かは証拠上必ずしも明らかでない。)、その箱の側面には「マッチ」と黒の太文字で書かれていたこと、蝋紙は、被告人方で販売しているタバコを包んであった包装紙であり、これを被告人が捨てずに店舗南西角のタバコショウケースの棚の中に入れてあったものであること、みね俵は、前記ガラス戸入口から入ってまっすぐ進んで突き当りの枠子の上に置いてあったものであること、そして右の放火材料はいずれも被告人方店舗内にあったものであることが《証拠略》により認められる。したがって、本件火災を外部侵入者の仕業だとすると、蝋紙とみね俵を集めるには暗い店内の陳列台の間を歩き回らなければならず、また、ダンボール箱を見つけるためには北側物置にまで入っていかなければならないのであるから、これらの点からすると、本件火災を外部の者による放火と考えるのはいかにも不自然のように思われないでもない。しかし、他方、これを被告人の犯行と考えるとしても、内部の者でなければ容易に集めることが困難な放火材料を用いることは、直ちに本件火災は内部の者の放火によるものであるとの疑いを招くであろうことは誰しも考えつくところであるから、前同様、被告人が自ら疑いを招くような方法を採ったといわざるをえないこととなり、にわかに首肯しがたいところがある。

また、原判決は、被告人方では、店舗部分を除く、居住部分および物置二室を取りこわし、改築する計画があり、既に大工との契約も終わり、同年三月中旬頃から着工の予定であったことが認められるから、物置を放火場所に選んだことは犯人がそれを知っている家人であることを疑うに足りる有力な事情である旨説示している。

しかし、本件火災発生の二日後に被告人方が放火と思われる原因で全焼しており、しかも、その際の出火場所は改築予定部分にはいっていない店舗東側であったことからみると、それは一応外部の者の放火であると疑わざるをえないのであるが、この全焼事件と本件放火とが同一犯人によるものと考える余地もないではないのであるから、原判決の前記説示はやや短絡的な論法であるといわざるをえない。なお、記録にあらわれている、原審における検察官の控訴趣意書中に、右全焼事件も被告人と無関係ではないと思われるふしがあるとして、そのことと本件火災とが結びくかのような所論がみられるが、全焼事件についての単なる主観的な疑惑から本件火災を被告人の犯行と推論することはとうてい首肯することができない。

(三)  原判決は、本件火災当夜は、小沢忠男、甲野太郎(被告人の夫)、三井泰彦、小沢和正の四名がその頃引き続いて発生した火災にそなえるための夜警の当番に当り、午前零時頃小沢忠男と甲野太郎が部落を見回り、午前二時過ぎに同様三井泰彦と小沢和正が見回りに出ており、しかも、夜警員が詰めていた部落公民館と被告人方の南側と西側とは全部見とおせる状況にあったから、夜警員の巡視の間隙を狙い、その詰所から見とおしのきく場所にある被告人方西側表ガラス戸を開けて外来者が侵入し放火するのは、極めて難事である旨を説示している。

しかし、記録によれば、右の夜警員による警戒といっても、二時間おきに部落内を巡回していただけのものであり、また、右の見とおし状況についても、公民館の窓から夜警員が目を離さず被告人方を監視することができた状態であったとは認めることができず、ことに、夜間であることをも考えあわせると、原判決の前記説示にはにわかに首肯できないものがある。

さらに、原判決は、心張棒のかかる西側ガラス戸は出火後も締っており(ただし、心張棒はかけていない。)、カーテンも全部引いてあったことが明らかであるから、もし、放火犯人が外部からの侵入者であったとすると、犯人は逃げ出すにあたってわざわざガラス戸を閉め、カーテンを引いて逃げたこととなり全く不自然である旨を説示するが、この点も一応はそのような思考が可能であることの反面、かりに外部からの侵入者があったとすれば、ガラス戸を開ければ、カーテンはそのままとして内部に侵入することもできるし、近くに夜警所があるので戸を開け放しにしなかったということも考えられないこともないが、いずれにせよ、右の事実の情況証拠としての価値を強度のものと評価することはできない。

(四)  以上要するに、原判決は本件家屋の戸締りのほか、放火の場所、材料、方法等の間接事実から本件火災を内部の者の放火によるものと断定したのであるが、右間接事実については反対解釈の可能性もあるばかりでなく、ことに、後に詳述するように、被告人を犯人と推断するについては、なお、幾多の疑問が残されており、原判決の指摘する本件発生後警察当局において近隣の変質者、前科者、恕恨関係者等放火犯人と疑われる多数の者を取り調べたが、いずれもアリバイ等があって放火犯人と疑うに足りる者のなかったという事実を考慮にいれても、右の疑問を払拭することはできない。

なお、当夜被告人方で就寝していたのは、被告人のほかに、長男初(当時一三年)、長女花代(当時一一年)、および前日の三月三日に被告人方に近火見舞と墓参をかねて甲府市から来た被告人の弟甲野十郎(当時二三年、左官職)の四人であったことが明らかであるが、被告人以外のこれらの者について放火の嫌疑が認められないことは原判決説示のとおりである。

五、原判決が説示する放火の動機について。

原判決は、(1)当時既に改築が決っていた本件家屋に、被告人は、出火の前々日に夫に内密で火災保険をつけようとし、また逡巡する夫を説得して二〇〇万円の保険を付したこと、および(2)昭和四二年二月以降被告人方周辺において発生した三回の火災につき、被告人またはその弟の犯行であるとの風評が流布され、弟甲野五郎や被告人自身も警察の取調を受け、とくに昭和四三年三月三日夜五郎の内妻乙山月子から、被告人らが、その叔父であり当時山梨県警察本部防犯少年課課長をしていた甲野太一に頼み、放火のもみ消しを図ったとの噂が月子の両親方にも伝わっていることを聞知した被告人は、種々思い悩んだ末、自宅に放火しても右の風評を他に転じようと思いつめることが考えられること、の二点を有力な放火の動機である旨を説示している。

しかし、(1)の事実については、本件が保険金騙取のための放火であるというならば、火災保険に加入することは、被告人の犯行と疑う重要な事実ともいえようが、それはともかくとして、当時被告人方家屋のある大久保部落には火災が頻発していたことが記録上うかがわれるので、これに備えて火災保険に加入することもあながち不合理とはいえず、さらに、その火災保険金額は、本件の直前に加入した二〇〇万円を含め、建物および商品について合計四〇〇万円余りであって、被告人方の家屋その他の動産の価格合計約七〇〇万円からすれば十分とはいえないから、本件家屋に火災保険をつけたからとて被告人がその家屋を焼失してもかまわぬと考えたとするには、なお疑問の余地があるし、さらに、被告人が右家屋を全焼させようとまでは考えていなかったとすることは、単なる想像の域をでないものというほかはない。

また、(2)の事実についても、本件記録によると、被告人は、三月三日夕食のさい弟五郎の内縁の妻乙山月子から前記のような風評が伝わっていることを聞いてその出所を知ろうとし、月子の実家乙山正一方に噂を伝えたという北割の植松茂樹方に午後八時過ぎに電話をかけたが、同人不在のため目的を達することができなかったこと、そこで被告人は、さらに大久保部落の小沢勘重が植松茂樹と親戚関係にあることから、一人で小沢方に噂の出所を確かめに行ったところ、同人から覚えがないといわれて要領を得ずに帰宅したこと、同夜一〇時過頃になり、被告人は、北割の植松方に直接確かめに行くことを決意し、弟五郎、その内妻月子を伴ない、五郎の運転する軽四輪自動車で植松方に赴いたが、同家の灯火が消えていたため、近くの月子の実家である乙山正一方に行き、同人に会って噂について確かめたが、同人からもはっきりした事実を知ることができなかったので、再び植松方を訪ねようとしたが、右乙山正一からもう遅いから思いとどまるように言われてこれを断念し、翌四日午前零時頃帰宅したこと、がそれぞれ認められることは原判決説示のとおりである。したがって、右の経過に徴すると、被告人が前記の風評に憤激し、その出所を確認しようと奔走したことはうかがわれるが、他方、前記乙山正一方を訪ねた際、月子の実父である同人から、五郎と月子が別れる意思がないなら問題はない旨の話があり、かつ、同人が、五郎に対して一生懸命仕事をして稼ぐように励ました事実が証拠上認められる。そうだとすれば、風評の出所を確かめることは、さらに後日にゆづることもできるし、右風評のため弟五郎と月子との正式の結婚が破談になるのではないかとの懸念も解消したとみるのが相当であるから、当夜被告人が帰宅した際は格別興奮していた様子もみられなかったという《証拠略》は、これを措信することができる。したがって、原判決が説示するように、「被告人が意図した噂の出所を確認できず、心理的葛藤は鎮静されないまま。」であったとすることは疑問であり、さらに、「自宅前で五郎夫婦と別れ、一人帰宅し床についたが、噂のことなど思い悩んでいたであろうと推測するのがむしろ女性の心理に合致すると思料される。」ものとしても、このことから直ちに、被告人が当夜自宅に放火してまでもこの風評を他に転じようと思いつめていたとみることには、なお疑問が残るといわなければならない。

六、その他原判決が説示する、被告人が犯人と疑われた事情について。

原判決は、(1)本件火災の前日頃、被告人が御召の着物一揃を弟五郎方に預けたこと、(2)出火当時被告人は、セーター、毛のズボン下、ズボン、靴下、ネッカチーフを着用し、口にマスクをかけて就寝していたことからみると、放火後の退避に備えていたものと推測できること、(3)本件火災を最初に発見した被告人が、寝床の中から長男初に対し、「物置の方が燃えている。見てみろ。」と促したことからみて、出火を予期していたものと認められること、および被告人は、弟十郎や子供を起こしただけで、長男初がホースを引いたり、ボールに水を汲んでかけたりしているのに、子供に促されるまでは水を運んでもいないこと、の三点を「被告人を犯人と疑うべき事情」としてあげている。

しかし、(1)の点については、なるほど、記録によると、被告人が三月三日朝、同人の御召一式を五郎方に預けた事実が認められるけれども、本件家屋の焼失による損害の甚大なのに比べれば、右の衣類を、その焼失に備えて搬出したものとみるには、火災による損害と衣類の価格とを比照しても、不合理であるばかりでなく、「近所の者が晴着を借りにくるので、それを断わるため弟五郎方に預けた。」旨の被告人の弁解も、不自然なものとして一概に排斥することはできない。現に、同じ年の二月中旬頃小沢輝文の妻杏子が被告人方に黒のハンドバックを借りに来た事実のあることも記録上うかがわれるところである。なお、その頃これと相前後して被告人の夫太郎が、長女花代の晴着一式、夏スカート、オーバーおよび長男初のズボン一本を右五郎方に運んでいる事実があるが、これについては、被告人は当初そのことを知らなかったのである。してみれば、被告人が自分の御召一式を五郎方に預けたという事実は、本件犯行と被告人との結びつきを肯定するに足りる有力な証拠とすることはできないといわざるをえない。

さらに、被告人は、三月二日夜にも、五郎に頼んで同人宅へ酒、ビール、醤油、菓子類、インスタントラーメン等を運んで預けているのであるが、それは、近く改築予定で大工数名が五郎方に寝泊りすることになっていたので、大工らに供するためのものであったという被告人の弁解は、《証拠略》にてらし信用できないものではない。

なおまた、原判決が本件放火の直接の動機を生じさせる原因であると判示しているいわゆる前記「もみ消し」の噂を被告人が乙山月子から聞いて知ったのは、三月三日の夕食時のことであるから、それ以前における被告人の前記各行動は、時間的関係からみても、本件放火に備えたものとみることは明らかに矛盾しているといわなければならないし、また、当審における検察官の主張のように、被告人が本件放火の確定的犯意をいだいたのは三月三日夜であるとしても、少なくとも三月一、二日頃には未確定的な犯意をいだいていたと認めることもできない。

(2)の点については、出火当時、被告人がセーターに毛糸のズボン下、靴下をはき、ネッカチーフをかぶり、口にマスクをかけて就寝していことは被告人もこれを争わないところであるが、当時はまだ寒い季節であり、かつ、近隣に火事騒ぎが続いていたのであるから、右のような服装で就寝していたのは、身体の冷えるのを防ぐためと近隣に火災が発生した際直ちに避難できるためであって、前記小沢周次方の火災があった後は毎夜のことであったという被告人の弁解はあながち不合理とはいえず、現に近隣の者で着のみ着のままで寝ていたものがあったことは、《証拠略》によっても認められるところである。

(3)の点については、なるほど、本件出火時に、被告人が長男初を起こした際、「物置の方が燃えている。見てみろ。」と言ったということが甲野初の検察官調書中に存するけれども、甲野十郎の検察官調書および被告人の検察官調書並びに右三名の第一審公判廷における供述によると、被告人が右のような言葉を発したことは認められず、証拠上はいずれとも断定しがたいところであるのみならず、被告人らが就寝していた部室の高窓から物置内の出火を発見することも極めて容易であるから、かりに被告人が右のような言辞を発したとしても、そのことから被告人が出火を予期していたと速断することはできないし、ごく短時間の出来事中で発せられた片言隻句によって重要な事柄を推認することには、とくに慎重な態度が要請されるものといわなければならない。

さらに、出火時から消火時までの被告人の行動状況についてみても、出火発見と同時に被告人はまず、長女花代を屋外につれ出したのち、長男初とともに消火活動をしたのであって、原判決の説示するように、被告人が率先して消火に従事していないからとて被告人が放火したのではないかとの疑いがある、とは必ずしも考えられないし、むしろ、被告人が犯人であるならば、率先して消火活動をして自己に嫌疑がかかるのを避けるのが通常であるともいえるのである。

七、原判決が証拠物として掲げているマッチ等入りダンボール箱内の蝋紙一包について。

(一)  前記のように、本件火災を外部からの侵入者による放火と考えることには不自然と思われるふしがないでもないところ、他面、これを被告人の犯行と考えるとしても、内部の者でなければ容易に集めることが困難な放火材料を用いて、被告人が自ら疑いを招くような方法を採ったとすることにも疑問がもたれるのであるが、そのことは、放火材料の一つである蝋紙について一層の疑惑を深くさせるものがあるのである。すなわち、本件火災の数日前である二月二八日に発生した被告人宅付近の小沢周次方の放火にも蝋紙が材料として用いられていたため、タバコの販売をも兼ねていた被告人方にタバコ包装用蝋紙が存在していたことから、右小沢方の放火事件について被告人方が疑われ、被告人も、本件火災の取調べにあたった長坂警察署員によって、蝋紙の保存方法、数量等について取調べをうけていた事実があるほか、被告人は、知人の堀内のりえからも右小沢方の放火に蝋紙が使用されたことを聞知していたものであるところ、本件火災発生前の深更に帰宅したときの被告人の精神状態にとくに異様な点があったとは認められないことは前記のとおりであり、被告人の性格も勝気というだけで、とくに異状はなく、本件火災の直前頃まで部落の婦人会の役員をつとめていたこともあるというのであるから、その知能についても問題はなく、被告人が思慮分別に欠けるところがあるとは認められない。そうだとすると、前記小沢方の放火について、蝋紙が点火材料につかわれていたことから被告人姉弟が警察の疑惑を招いて取調べを受けていた矢先の本件放火において、被告人がまたもや蝋紙を点火材料の一つとして使用したとすることは不可解であり、本件放火と被告人とを結びつけることには、なお、相当程度の疑いが残るものといわなければならない。

(二)  次に、蝋紙一包が証拠物として警察官によって領置された手続上の過程をみるに、記録中の司法警察員仲沢幸男作成の昭和四三年三月四日付実況見分調書によれば、同調書および添付写真の説明欄には、本件蝋紙が三月四日の実況見分時にダンボール箱内のマッチ箱の下から発見された旨の記載があるが、《証拠略》によると、実況見分時には右ダンボール箱の内部が水浸しになっていたため、中味をよく調べず、そのまま長坂警察署に持ち帰って保存し、その後三月一一日にいたり、取調官の秋山実が改めて内部を調べた際、右の蝋紙を発見したものであるにもかかわらず、あたかも実況見分時に存在していたかのように記載し、かつ実況見分調書の作成日を三月四日に遡らせたことが認められる(なお、右記載部分については第一審の公判において証拠排除決定がなされている。)。ところで、放火被疑事件の捜査過程において、点火材料と疑われる物件を領置するにあたり、本件におけるように「四倍型『伊勢屋』名入広告用マッチ等残焼物入りダンボール一式」というような押収品目録の記載方法がとられたことをもって、一概にこれを違法視すべきものではない。しかしながら、本件にあっては、前記のように、数日前に発生した小沢周次方の放火に蝋紙が使用されていたことから被告人方の者の所為ではないかと疑われ、被告人と弟五郎が警察の取調べをうけていたという事実が存していたのであるから、領置の際に、なにをおいても右ダンボール内の内容物を点検して、本件についても蝋紙が点火材料として用いられていたかどうかを確かめるべきであったのである。現に、第一審における証人秋山実の供述によると、本件ダンボール箱が領置された日の一週間後に、同人がその内容物のなかから蝋紙を発見して非常に喜んだというほどであるから、蝋紙の存否が本件にとって重要な問題であることは捜査官においても十分了知していたはずである。もっとも、右ダンボール箱は、被告人が流し台で水をかけ棒でつついたため水浸しとなっていたので後日乾きをまって内容物を見分する意図であったというのであるから、証拠物の取扱いに慎重を期したものと認められるのではあるが、前記証人秋山実の供述によれば、本件実況見分の際にダンボール箱を見たとき、マッチの中央のところに紙の燃えたふちのようなものがあったということであるから、いかに水浸しになっていたとはいえ、蝋紙以外の点火材料の残存物は、みね俵とマッチ箱の燃え残りとであった本件ダンボール箱の内容を注意深く取り扱って調べるならば、即座に蝋紙の存否を確認することができたはずであり、現に、司法警察員矢崎博が本件蝋紙の発見状況を撮影した写真四葉でみられる蝋紙は、一見それと判断することができるほどの形状を保っている点からみても、一層その感を深くするのである。さらに、右の写真四葉を提出した経緯に関しても、これを現像、焼付して写真撮影報告書とともに検察官に送付する手続が遅延した事情について、前記証人秋山実と同矢崎博との間に供述のくいちがいがある点を考慮にいれるとき、本件蝋紙の証拠物としての証明力は相当程度に減殺されるものといわざるをえない。

八、「疑わしきは被告人の利益に」という原則は、刑事裁判における鉄則であることはいうまでもないが、事実認定の困難な問題の解決について、決断力を欠き安易な懐疑に逃避するようなことがあれば、それは、この原則の濫用であるといわなければならない。そして、このことは、情況証拠によって要証事実を推断する場合でも、なんら異なるところがない。けだし、情況証拠によって要証事実を推断する場合に、いささか疑惑が残るとして犯罪の証明がないとするならば、情況証拠による犯罪事実の認定は、およそ、不可能といわなければならないからである。ところで、裁判上の事実認定は、自然科学の世界におけるそれとは異なり、相対的な歴史的真実を探究する作業なのであるから、刑事裁判において「犯罪の証明がある」ということは「高度の蓋然性」が認められる場合をいうものと解される。しかし、「蓋然性」は、反対事実の存在の可能性を否定するものではないのであるから、思考上の単なる蓋然性に安住するならば、思わぬ誤判におちいる危険のあることに戒心しなければならない。したがって、右にいう「高度の蓋然性」とは、反対事実の存在の可能性を許さないほどの確実性を志向したうえでの「犯罪の証明は十分」であるという確信的な判断に基づくものでなければならない。この理は、本件の場合のように、もっぱら情況証拠による間接事実から推論して、犯罪事実を認定する場合においては、より一層強調されなければならない。ところで、本件の証拠関係にそくしてみるに、前記のように本件放火の態様が起訴状にいう犯行の動機にそぐわないものがあるうえに、原判決が挙示するもろもろの間接事実は、既に検討したように、これを総合しても被告人の犯罪事実を認定するには、なお、相当程度の疑問の余地が残されているのである。換言すれば、被告人が争わない前記間接事実をそのままうけいれるとしても、証明力が薄いかまたは十分でない情況証拠を量的に積み重ねるだけであって、それによってその証明力が質的に増大するものではないのであるから、起訴にかかる犯罪事実と被告人との結びつきは、いまだ十分であるとすることはできず、被告人を本件放火の犯人と断定する推断の過程には合理性を欠くものがあるといわなければならない。

九、前記のように、被告人が本件放火の犯人と疑う余地が全くないとはいえないけれども、上述したとおり、被告人を本件放火の犯人と断定することについては合理的な疑いが残るのであるから、これらの疑問点を解明することなく、前記各事実を総合して、本件放火と被告人との結びつきについて証明が十分であるとした原審の判断は、支持しがたいものといわなければならない。したがって、原判決は、証拠の価値判断を誤り、ひいて重大な事実誤認をした疑いが顕著であって、このことは、判決に影響を及ぼすこと明らかであり、これを破棄しなければ著しく正義に反するものと認められる。

一〇、ところで、本件は、火災発生の日から五年余り経過し、しかも本件火災発生の二日後に被告人方家屋はなんぴとかの放火と疑われる火災のため全焼しているので、今後あらたな証拠が現われることはほとんど望みえない状況にある。現に、原審における事実の取調によっても、第一審の証拠調の結果に付加すべき何らの新証拠をうることができなかったという経過に徴しても、いまさら、本件を原審に差し戻し、事実審をくりかえすことによって事案の真相の解明を期待することは適切な措置であるとは思われない。とくに、本件においては、犯行と関連性があると認められる間接事実の存在については争う余地が少なく、核心は、情況証拠に対する評価とこれに基づく推論の過程にあることを考えあわせると、本件は当審において自判することによって決着をつけることが相当であると考えられるので、本件は、「疑わしきは被告人の利益に」の原則に従い、公訴事実につき犯罪の証明が十分でないとして、被告人に対し無罪の言渡をすべきものである。

よって、刑訴法四一一条三号により原判決は破棄し、同法四一三条但書、四一四条、四〇四条、三三六条により、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 岸 盛一 裁判官 大隅健一郎 裁判官 藤林益三 裁判官 下田武三 裁判官 岸上康夫)

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